昭和52年11月08日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 「本当の信者」それはやはり本当のことが段々分かってくる。本当のことが分かると言うても、本当のことが身に付いてこなければおかげにならん。昨日、本部から「教報」が毎月参ります、教務所から来た「北九州だより」ですかね、「北九州だより」ですかね、いや、「北九州教区だより」と言う新聞が毎月参ります。いつの場合でも、素晴らしい記事が出ております。書いておる人は〇〇先生と言うやっぱり名のある有名な先生方が書いておられます。
 私読んでから思うんですけども、こんな素晴らしい事が分かっておられる、こんな素晴らしい事が書かれる内容を持っておられるのにも拘らず、どうして本当のおかげがその人その教会に現われんのだろうかと言う事です。本当にこんなに素晴らしい事を、言うならば、分かってはおられるけれども、それが分かっておられると言うだけで血に肉になっていないと言う事です。本当な事が分かって、本当な事が自分の信心の信条と言う事になったら、その通りのおかげが受けられなければならない。
 先日大変有名な竹内長次と言う先生がおられます。その先生がお道の新聞のトップに書いておられます「今金光教の信者が五十万と言われておるけども、実は三十万だ」とこう言っておられる。一遍にガタッと減ったもんじゃなあと私は読みながら思ったんですけどね「そしてそれは教祖の神様の御教えが嘘でない実証の印だ」と言っておられます。だから「せめて教祖の神様が教えて下さる本当な事を、一つでも行じて貰えば行じて下されば、各教会にもっと生き生きとした御比礼が立つのに」と書いてあります。
 「世の多くの先生方に、このことだけはお願いしたい、このことだけは守って貰いたい」。教祖様が、「お広前を明けてはならん」と。「お広前を明けておると参ってきた信者が今日はお留守じゃったと、神様がお留守じゃったように言う」と言う御理解を引用して、言っておられます。どこの教会でもそう言う、例えば教会があるだろうか、あろうけれども極少ない。
 例えば「この御教え一つ守っていないと言う事実が、言うなら百万と言われた信者が五十万になり、五十万と言われた信者が三十万になると言うのは、それはもう教祖様が嘘をおっしゃってない証拠なんだ」と言う。だから今の様に乱れた教会の御取次状態と言ったようなものでです。言うなら「お広前を空けっぱなしに空けておってです。もし、隆々たる御比礼が立ったなら、それこそ教祖様が嘘を仰ることになるんだ」と。
 正しくその通りです。教祖様が嘘を仰ってない、その実証が現在金光教が、衰微の一途を辿っておるのは、そう言う様な事。だからその一事でも本気で修行しなければいけない。教師たる者が、大体お医者さんです、竹内長次、同時に御道の教師の資格も持っておられるから、まあ、先生方にでも同格のそう言う風な意味のことでも、堂々と言われなさるわけであります。
 これは、だからお互いの上に言っても同じなんです。どんなに素晴らしい御理解をそれこそ神様直伝と思われる様な御理解を頂いてもです。そしておかげが頂かれるのならです。教祖様が嘘を仰ってない実証なんです。おかげを受けられないと言う事は。だからせめて、ここで言われる合楽理念の中の、言うなら「黙って治める」と言う事だけでもです。「本気で一つ守ってみないか」とこう言うのです。
 守らずしておかげ頂かれんおかげ頂かれん。毎日参りよるばってんおかげ頂かれん。毎日参ればおかげになるとは仰っておらんもん。「この方金光大神が言う事に背かぬ様に、よく守って信心せよ」と言うてある。あれもこれもとはいかんでも、ならお道の教師に竹内長次先生が言っておられる様に『お広前お結界御神前奉仕に専念する』その一言だけでも出来ていない教会がまあ殆どと言うていい程に出来ていないのだから、信者が減るのは当然のことだ」と「教祖様が嘘を仰ってない実証だと言っておられる。
 だから銘々の所でそれを頂くと、そう言う事になるでしょうが。どうしておかげを頂かれんじゃろうか、どうしてこうおかげを頂かれんじゃろうかと、教祖様が嘘をおっしゃってない証拠なんです。教祖様が仰っておられることを、本気で、言わば守るとか、行ずるとか、自分の信心の血に肉にして初めて、いわゆる教祖様は嘘をおっしゃってないな、と言うおかげが頂ける様になるのです。
 「こう言う信心すりゃこう言うおかげも、徳も受けられる」その徳を受けられる信心も、修行もせずして徳がもう、特殊な人だけしか頂けんもののように、「信心すれば誰でも御徳が受けられる。御神徳が受けられる」とおっしゃっておるのに、その信心になっていない。昨日私が研修の時申しましたことでしたけども、こう言う素晴らしい記事が書いてある。こう言う素晴らしい本当な事を分かっておられる先生でありながら、その先生のところで、どうして隆々たる御比礼が輝かんのだろうか。
 人が助からんのだろうかと、言うならば、分かってはおるけれども、それを自分のものにしよう、努めようという、精進がないからだと言う事になるのです。惜しい。分かっておってそれを行じないのなら。だからひょっとすると、おかげは分からん方がおかげを頂くと、言う事になるかも知れませんね。分からん。それでもただお願いだけ、分からんからね、神様は分からんなりにおかげを下さる。分かっておる。そしてお願いをする。おかげにならん。
 分かっておってせんから、尚おかげにならんと言う様な事になるのじゃないでしょうか。これが本当だけれども。これが本当だけれども、本当なことをせん。だからおかげにならん。福岡の三代ですね、吉木辰次郎と言う先生が、ある年の暮れに、いつも親教会である小倉の教会に年末の御礼に行かれる。これはまあ一つの家例になってから何か焼のりか何かを、大きな一缶をまあ御歳暮にいつも持って御出でられるそうです。それでそのまあお参りが出来るそのため、ちゃんともう御歳暮だけは用意してある。
 ところがやっぱり教会年末は、バタバタとして忙しいですから、今の親先生でしょうか、次の息子さんでしょうか、とにかく息子さんを呼んで、「実はお父さんがお礼に出るのが本当だけれども、こんな状態で急がしゅうて出られんから、親先生にそのことを宜しゅう言うて、お前が代わりに代参をしてくれないか」と。「なら参りましょう」と言う事になって、その焼のりとお届けを神様の前に
 お供えして「只今から本当は私が教会長としてお礼に出るのが本当でございますけれども、子供を代参させますから、どうぞ宜しゅう」というてお届けをなさったら、もうとたんに神様から頂かれた言がね、『本当と分かっておる事を本当に行なう言が信心ぞ』と言うお知らせを頂かれたと言う事です。もうそれこそビックリされて、もう「いややっぱりお父さんが行こう」と言うて、行った言があると言う話をよくなさっておりました。本当の事とお前は「これが本当ですけれども」と言うているじゃないか。
 分かっておって本当の事を何故しないのかと、それでは本当のおかげにならんぞと。言うなら言う訳であります。私は昨日「教報」に見る又はその「北九州教区だより」を見せて頂いて、本当に素晴らしい言うならば記事が出ております。そしてこう言う素晴らしい、言うなら神様の心の奥とも思われる様な所が、分かっておられる先生、それなのにその書いておる先生の所で、御比礼が立っていないとするならばおかしい、結局本当の事は分かっておるけども、本当の事を自分の血に肉にしようとする。
 その精進をなさらんからおかげにならんのだ。いわゆる教祖様が仰っておられることを、悪い意味合いにおいて、みんなが実証しておるようなもんだ。だから私共の場合、合楽の皆さんの場合はです。言うならば私しが言うておることを皆さんが行じて、私が言うておることを「成程親先生は嘘は仰てはいないな」と言う、私の言うことの実証者になって下さいと言うわけなんであります。
 末永先生が、ビリグイの地で、言うならば「成程親先生が言う通り、合楽で修行した者は、決して食うの食われんのと言った様な、難儀な事はそんな所は通らせん。合楽で修行させて頂いたら必ず人が助かるおかげを頂く」と言うておられたが正しくその通りに、一遍だん親先生の修行中に、それこそ月次祭にお神酒すずの中も水なら、水玉は勿論水だけれども、それこそお野菜といや庭に出来た少しばかりのニラがあり、食料品店から貰って来た、腐った漬物の良かところだけ取ってからそれをお供えしてある。
 それでやっぱりお月次祭をさせて頂いた。そしたら神様から『水ずくし魚ずくしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃ』と言う風に頂いた、それを末永先生手紙に書いとりました。「だから先生、折角布教に出らせて頂いたのですから、一遍だん水ずくしのお祭を仕えたいと思いますけれども、こちらへ参りましても十日目からは人が助かるようになり、月次祭ともなるとどこから集まってくるか分からんけれども、小さいお広前ではあり、小さい御神殿であるけれども一杯のお供えが集まる」と言ってます。
 成程親先生が言われる通りに実証しておられるんだと言うことを、実証しておることが分かります。しかも至難と思われる、難しいと思われる、言うならば言葉も分からなければ、土地風土も違う所に行ってそう言うおかげを頂いているんだ。今日は私そのビリグイの事をお願いさせてもらいよったら、末永先生が三味線の太棹ですね、浄瑠璃の語りさんが弾く奴、大きい三味線です。その三味線をこうやって膝の上に乗せてですね。そのバチを使わにゃいかんのにバチを使わずにね。
 手で爪弾くならまだ良いけれども、あの三味線の糸をね、こげな風に引っ張っていきよると。こう引っ張って弾きよるだけです。大体こうして弾かんなんでしょう。それを紐をこうやって紐があるのをこればこうやって引っ張るだけで、それでも壷を押さえとるけん、ちいとばかり本なことに鳴りよるわけたい。大体言うならバチなら撥をハッとここに当てて行きゃ、素晴らしい、撥と言う事はお気付と言う意味です。私共は日々がずうっとお気付の頂き通しなんです。
 私共でもそうですよ有難いおかげを、もういわゆるズムを聞き続けると言う事はね、あの言うならばある意味合いにおいては、あっそんな事じゃいかんぞと言うて、言うなら神様はお気付を下さりよるんですよ。撥と言う事は罰被ると言う罰です。大体撥弾きゃ素晴らしい撥を撥と分かって弾けば、もっと素晴らしい良い音色が出る。親先生が言う言うならば言われとった通りに、こう言う親先生の言うてる事を皆実証しておる訳ですけども、ならその信心がどの程度の信心かと言うと、たぶん弾いとるのじゃない。
 こうやって引っ張りよるぐらいの事ででも、現在のおかげが頂かれると言うのですから、わたくしの言うてる事の総てでなくても、一言だけでも守ればあの位のおかげは頂けると言う事になるわけでしょうが皆さん。竹内長次先生が言っておられる。あれもこれもとは言わん、教会の先生方にお願いしたい事はです。「お広前を空けてはならん」とあれ程におっしゃる。「朝の早いと遅いは、信者の参りの早い遅いにかかわるぞ」と「お広前を勤める者は、言うならば油断をしてはならん」と。
 「いつも裃を着けた様な気持ちで」と言う風に言っておられるその一言でもです。守らせて頂いて、教会の入口には呼びリンなんかが付けちゃある。ジリリリンと押すと(笑)奥の方から先生が出て来なさる。おらんのならまだ知らず、御用で出ておるならいざ知らず、けれども、教会の中におってから、裏でテレビどん見とる。これで言うならおかげが頂かれるとするならば、教祖様は嘘を仰ったと言う事になるよ、と言うておられる訳です。それでおかげが受けられるなら。
 だからその事一言でも守らせて頂いたらです。神様がそれに応える様に、神様が、実証させて下さる。二三日前、熊本の山田先生がお届けに出て参りました。十二月の十五日、来月の十五日が秋の御大祭、親教会に相談に行ったところが、親教会が十二日げな、だから「十二月の十五日ちゅうならあんたここの報徳祭の前ん日じゃない、ほりゃあんたもう報徳祭やら秋の大祭やらわからんごたるね」「それでもそんな風にあの、親先生が言われたから十五日にこれから仕えますから」とこう言うわけ。
 それでおかげを頂いて今度装束も出来ましたと言うお届け、この頃はあの装束でも家から持って行きました。今度おかげを頂いてからまあ装束も出来た、それでどげな風その合楽から行ったら良かか、と言ったらその首をひねりよる訳です。だからあの私が行く分は良かばってん、まだ向こうのその親先生と言う人と、物言うた事もなかなけりゃ、一遍の御挨拶を受けた事もない訳なんです。だから家から行ったら却って向こうの先生が気の毒かんなさろうごたるけんで、「こりゃ行かん方が良かなかろうかね」と。
 また他の教会とお付合いする程しのあれもないもんですから、まあ親先生と二人でなら仕え帰って、そげん言うちから後から帰った後にですもの、装束着けた先生が二人でまあお祭りを仕えんなりに、賛者もなしじゃ困るだろうから、家の誰か修行生の方を一人二人やって朝の十時のお祭ちゅうなら朝ちっとばっかしはようやって、そのまあその色々御用したりする信者もまだいない位ですから、あのうやらにゃいくまいなと私が思うたら、もうそれこそ何か知らんけれど感動がわいて(笑)仕様がないとです。
 もうそれが二三日その事を思うと感動するんです。今朝もやっぱりもう家から、そんなわけじゃけ行かんばいと言うとったけれども、私やら若先生が行ったら、成程向こうの親先生がきまりが悪ならなさるかも知れん、だからうちの修行生ならば、「修行生同志の先生が手伝いにきとる」と言やええけん。「賛者服を持って行きゃあ、賛者もやるなら、赤襟の先生方ばかり二人でしよるとに賛者がおらんのじゃ様になるまい。
 だからうちから賛者をまあやらじゃこて」と腹に決めて、それを祈らして貰い思わして貰うと感動が湧く。昨日御理解の中にも、いびきをかきなさる人のお取次をさせて頂いたら悲しゅうなったと言う、まあ親心とはあれが親心なんだと、だからそう言うもう断っておるけれども、心の中じゃやっぱしてやろうと思うのがやっぱり親心じゃないだろうかと言う風に思うんです。ならこう言う事なら山田先生は、全然合楽の先生はこげんして植木教会の事を思うてくれとるちゅう事はいちょん知らんでしょうね。
 だから「知らぬおかげ」と言うのはそう言うおかげじゃなかろうか。私共が願うておる。神様があれもこれもと思うておって下さる。又信心の出けんばってん、まぁあのおかげもこのおかげもと神様が準備しておって下さる。そう言う働きがありよる。そう言う事が知ったおかげよりも知らんおかげ(笑)と言う事じゃないでしょうか。ですから本当言うたら、もうどれ程お礼を申し上げてもお礼を申し上げてもお礼の申し上げようが足りないと言う事になるんです。親の思いと言うものは、そんなもんなんだ。
 だから「それが分かる様になると」と言う事はです。親と言うものはです。こう言う思いのものだと分かると言う事なんです。親が叩くと言うけれどもです。憎いから叩くのじゃない。分からせよう可愛いからこその、言うならば憎うしてこの手が当てられようかと言う親心が分かった時に言わば「それもまたおかげであるぞ」と言う言が分かった時じゃないでしょうか。
 最近例えばもう願いの信心、合楽の信心はもう願って願って願いぬくいわゆる縋りぬく信心、それは親と言うことが分かれば分かる程、それでなからなければならない。それが信心の最高最高だけにやはり難しい。親心が分かれば感動する。親心が分かれば奮い立つけれども分からんところに、却って親を恨むような心すら起こってくる。そこで今日私が皆さんに聞いて頂く「知ったおかげより知らぬおかげが多い」と言う言がね、親はあげん言うよるけども、心の中で親はこうも思っておってくれるのだろう。
 それが親心だと言う風に分かってくると、その分かるその心がね、親と通ずるんです。例えて言うと、おかげは氷山の一角であって、目に見えないところのおかげの方が多いと言う。言うならばこれはおかげの事ですけれども、今日私が皆さんに聞いて頂いておるのはです。まあだおかげと言う形になって現われてない。言うならば口ではもう「だから家からは斎員あの行かんばい」と言うておりながら、すぐその後にはやっぱりやらにゃいくめえ、やろうともう腹を決めとる。
 だからこれはまだ、おかげと言う事になっていない。思とるだけの事。けれども、その私の思いが、もし山田先生が分かる様になった時が、言うならば、「目に見えるおかげよりか目に見えないおかげの方が多い」と言う事が分かって来る事になるのじゃなかろうか。また同時に、親に対するところの情念心と言うものは、憧念心と言うても良い。情念と言うても良い。それが本当に交流し、通う事になって来るのじゃなかろうか。そこから縋らずにはおられないと言うものが、また頂けて来る様に思うんです。
 本当な事が分かる、本当の事が分かる様になるとです。「あれもおかげであったこれもおかげであったと分かる様になる」と「本当の信者じゃ」と。難儀と思うておる、憎たらしいと思うておる。ところが、その憎たらしいと思うておるその心が親心であった。信心しとるとにどうしてこう言う事がと思ておると、その事がおかげを下さろうとする働きであった。非情と思うておったのは友情であった、と分かって来る様になると、いわゆる信心が、言うなら本当のものになって来る。
 と言う事はそのままその思いが親神様との、言うなら心との交流と言う事になる。本当に親が思うておってくれることを思うたら泣かずにはおれんと言う様な思いが生まれて来る。 そう言うものが分かって始めて、願いの信心と言うものは樹立されるんだと私は思います。本当なことを教えて貰う。にもかかわらず本当なおかげが頂かれない。ならば頂かれん方が本当だと言うこと。
 もし本当のことを頂いて「本当のことを行じもしないで、そして本当のおかげがもし受けられるとするなら、それこそおかしいんだ」と、まあ竹内長次先生は言っておられます。私はそれを見せて頂いて「成程そうだなあ」と。教団全体が、教祖様の仰っておられる、お広前を勤める者が、教祖様の仰っておられるその一言だけでも、本気で行じる気になれば、金光教は今度は反対に有難い意味合いにおいての実証。
 教祖様が嘘はおっしゃってないな、と言うおかげが、各々の教会で人が助かる様になり、御比例もいよいよ輝いて来る、と言うわけです「願わくば多くの教会の先生方よ、どうぞこの一事だけでも守って下さいよ」と、長次先生は書いておられます。それからね、私は教会じゃない。お互い信者の一人一人がです。本当のことを毎日聞きながら本当のことが出来んところに、本当のおかげがいつまでたっても頂けんのだ。これは教祖様の嘘を仰ってない証拠だと言う風に頂いて、本気でやる気になればです。
 なら末永先生が私が言う事を本気でやる気になって、私から見るとまあほんなら三味線をこう弾いとる、撥で弾かず手でこうやって引っ張っりよる様な事じゃけれども、やっぱり壺をこうやって押えておるから、その一寸リズムが出て来よる訳です。だから私共がね十のものを十もせよとは仰ってはないのです。「十もの中の一つでも本気で守り行じ抜かせて頂け貫けよ」と言っておられるのです。いつも言う様にもうそれこそ一本の線香に火が灯って、それにそれを紙にこう持って行きゃそれを貫く言が出来る様に。
 焦がすことが出来る様に、いかに「良い信心、良い信心」と言って、漠然とした信心が、もう本当のことはもう一杯こう分かっとる。「金光様の信心のこげん詳しゅうなっとる」と言うだけではね、ボンヤリした蛍の光の様なもんだと。紙一枚を貫くことすら出来んのだと。線香一本でも良い、火がついておると、ひょっと紙に持って行けば、それが突き焦がすことが出来る様に。
 教祖様の御教えを本当に、一言でも行じ貫かせて、もう貫くと言うことはね、そこに言うならば一つしか出来とらんけども、十も出来たかの様にしておかげを下さると、言うことになるのじゃないでしょうか。そう言うおかげを頂いて、いよいよ本当の信者、「あれもおかげであった。これもおかげであった」と、一切神愛として頂いて行けれる信心を、言わば分かってでなくて、身につけて行かねばいけんと言う事ですよね。
   どうぞ。